セルゲイ・ブブカ特別講演

『2020へ スポーツの夢とレガシー』 

セルゲイ・ブブカ氏:棒高跳元世界記録保持者、国際陸上競技連盟副会長 

小須田潤太氏:パラアスリート 


先に、セルゲイ・ブブカ氏のプロフィールを改めておさらいしましょう。 

1963年にソビエト連邦(現ウクライナ)で生まれました。 

1983年ヘルシンキ大会、当時19歳で世界チャンピオンになりました。(その後,世界陸上で6連覇を達成) 

ソウルオリンピックでは、5m90のオリンピック記録を樹立。 

現役時代は世界記録を35回更新し、「鳥人」と呼ばれました。

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【セルゲイ・ブブカ氏トークショー】


 司会:ようこそ東京へ! 

ブブカ氏:こんにちは。今日は皆さんにお会いすることが出来て本当に光栄に思っています。  


司会:日本の教育機関での講演は初めてということですね。 

ブブカ氏:そう思います。こんなに大勢の前で、大学で話をするのは初めてです。

そして皆さん、緊張しないでくださいね!楽しみましょう!ストレスが漂っているのを感じますよ。 


司会:東京への思い出はありますか? 

ブブカ氏:日本には素晴らしい思い出がありますよ。ここは私が訪れる中でも特に好きな国の一つです。競技人生を振り返っても、日本は試合をするうえでもお気に入りの国のひとつでした。


1991年は東京世界陸上に出場し、私にとって3つ目の金メダルを獲得しました。その試合で私は怪我をしたこともあり、はとても難しくタフな試合でした。それと日本では東京と福岡、確か大阪でも世界記録を樹立したのではないかと思います。

そして私が日本を好きな理由の一つに、日本人の存在があります。私はいつも日本人の素晴らしいおもてなしと友情、スポーツへの情熱、そして私の挑戦をいつも皆さんが支えてくれていることを感じていました。  


司会:世界記録を35回更新した現役時代を振り返り、今どのように感じていますか? 

ブブカ氏:うーん、一般的に私の競技人生を見てみると、ありとあらゆるタイトルを獲得してきましたし、記録も更新してきました。ただこの35回更新してきた世界記録に関しては、いつも「もっとよくなりたい」と思い続けていました。


私は6m20を目標に競技をしてきましたが、その前で引退をしました。もちろん、私は本当はもっとやりたかったです。オリンピックのメダルも1つだけです。

いつも皆さんも目標にむけて、良いモチベーションをもつことが必要です。そして目標を達成した時は、新たな目標を設定しましょう。目標を達成するために、継続して努力を続けましょう。目標に向けて、諦めず、夢見ることを止めず、取り組み続け、そしてベストの自分になれるように取り組み続けるのです。このことはスポーツだけでなくビジネスやそのほか人生において共通します。 


司会:東京オリンピックまで1年を切りましたが、ブブカさんはどんな東京オリンピックになってほしいと願いますか?  

ブブカ氏:私は引退した時に、スポーツの運営を担うようになり、現在はウクライナオリンピック委員会の会長そして国際オリンピック委員会の理事でもあります。2013年に2020オリンピックを東京に決定した際にもかかわっていました。東京オリンピックが素晴らしい大会になると確信しています。


日本はとても強く、成功しており、スポーツやオリンピックが好きな国です。日本人はオリンピズムへの理解が深いということは多くの人が感じています。必ずいい大会になるでしょう。そして皆さんも素敵な時間を過ごせることでしょう。  


司会:ブブカさんは4回出場し1つの金メダルを獲得しましたが、オリンピックのプレッシャーというのは他大会とは違うものなのでしょか?  

ブブカ氏:はい。そしてこのことは彼(司会;TBS石井アナ:テニスプレーヤー時代はブブカ氏の息子とダブルスを組み世界中で試合をしていました)もよく知っていると思います。

私も皆さんと同じように人間です。たとえ素晴らしい競技成績を持っていたとしても、ストレスやプレッシャーを感じますし、それをコントロールすることが必要です。オリンピックではもちろん、これはユニークなもので、このような大会は他にはありません。世界中からオリンピックに勝つために、選手が集まてくるんです。


私は最初のオリンピック(1984年ロスアンゼルスオリンピック)をボイコットにより逃しています。そして私は幸運にも次のオリンピックにも出場できました。このように次のオリンピックの機会を得る選手は非常にわずかで、15%程度の選手しかこうはなりません。私がソウルオリンピックに来た時は私の夢がかなった時でしたが、非常にプレッシャーも感じました。そして私は風が悪いという、悪いコンディションを乗り越えなくてはいけませんでした。幸運にも最後の試技の時に、自らの身体と心の強さに改めて気づき、これまで固まっていた体から解放され、優勝を決めることが出来たのです。この瞬間はとても驚くような、そしてユニークなもので、そしてわたしは当時のことを誇りに思っています。


そして2回目のバルセロナオリンピック、この年、私はすべての試合に勝っていましたが、唯一勝つことが出来なかったのがこのオリンピックの試合でした。オリンピックで世界記録をという夢もあり、それがプレッシャーになり、とても難しい試合でした。


さらに4年後の1996年、この年は私にとって最高の状態出迎えたシーズンの一つでしたが、私は怪我をしました。私はオリンピック前の3カ月でオリンピックで試合が出来るように準備をしようとしましたが、医師の診断にミスがありました。私は当初は試合が出来ると言われていました。しかしその時、私のアキレス腱の25%は切れていたのです。そのためにこの年のオリンピックでは試合が出来ず、その後2回の手術を経験し、2000年のシドニーオリンピックに挑みました。しかしその時にはもう上手く競技ができませんでした。これが私の”困難な”オリンピック人生です。皆さんも私のオリンピックへの歴史を想像できたのではないでしょうか。


そして私は4回出場したうちの一度優勝できました。これはとても幸運なことで、金メダルはかけがえのないものです。これは最高の思い出で、誇りに思っていることです。 


可能ならばボイコットについて、もう少し話をします。

1984年、この当時私は楽しみにしていましたが、20歳で若かったこともあり、すぐに次の機会に気持ちを切り替えました。これは私の難しく悪い思い出の一つです。年を取るにつれて、私はこのことをますます理解していったのです。今になっては心の痛む思い出になっています。私はオリンピックチャンピオンになる機会を失ったのです。幸運にも4年後に私はオリンピックに参加しますが、多くの友人は夢を失い、オリンピックで試合をすることも、メダルを取ることもできなくなったのです。


現在私はスポーツ運営に携わり、IOCやウクライナのオリンピック委員会にいますが、いつもこの当時のことを思い出し、すべてのボイコットから選手を守るようにしています。ボイコットがあると、必ず否定しますし、この言葉は注意が必要な言葉です。

オリンピックは私たちが平和になれることを世界に示します。どこに住んでいても、どの言葉を話し、どの宗教を信仰していても、私たちは平和になれ、一緒になって平和を築くことができる、このことを私たちは覚えておくべきです。そしてこれがオリンピズムです。オリンピックはすべての人にこのことを示す機会です。国内だけでなく、世界中にこのオリンピズムの精神を示してください。  


司会:ブブカさんにとってもオリンピックに出ること、そして結果を出すことは想像を超えた難しさがあったんですね。そのなかでいよいよ来年に控えた東京オリンピック、そのあとにはパラリンピックがあります。ウクライナはリオオリンピック大会では、中国、イギリスに次ぎ世界で3番目にメダルを獲得するほど強いということです。パラリンピックについては、どのように捉えていますか? 

ブブカ氏:パラリンピックはオリンピックムーブメントをさらに進めるための素晴らしい大会の一つです。IOCとの契約の中でパラリンピックもオリンピックと共に開催することとされています。


そしてこの大会は障害を持った選手たちにとっても夢を見ることの勝利を掴むことできる機会を与える素晴らしい大会です。全ての人にとってとても大切なものです。ウクライナもとても強いチームがありますが、そのような選手が力を発揮し、人格や信条を成果という形で表現できることは、見ていてもとてもうれしく感じます。すべての人々にとって、そしてオリンピックムーブメントにとって大切な大会です。 


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