【メンバーインタビュー】no.20 八木田 沙椰 / 事務局
いつもBoutaka Channelをご覧いただきありがとうございます。
NPO法人ボウタカの八木田沙椰です。
あまり表には出ないので、私のことを知らない方も大勢いるかと思いますが、今回は私の生い立ちや棒高跳との出会いについてお話していこうと思います。
是非最後まで読んでいただけると嬉しいです!
私は、静岡の一番西・湖西市新居町という町で生まれ育ちました。
「湖西市」と言っても県外の方や県内でも東部の方には伝わらない事が多いので「浜松出身です!」と言うことが多いです(笑)
【八木田沙椰の生い立ち】
スポーツ系の習い事は経験したことがありませんが、暇さえあれば外で遊んでいたような気がします。
両親が経営している飲み屋のお客さんと本気50m勝負を勝てるまでしたり、一輪車の練習をしていた時に5mの区間を100往復しろと父に言われて、実際に100往復して乗れるようになったり・・
気の強い、負けず嫌いな子どもだったなあと思います。
【八木田沙椰と棒高跳】
そんな私が棒高跳と出会ったのは中学校2年生のときでした。
父が棒高跳のクラブチームのコーチになり、自宅から歩いて3分のところに棒高跳のピットができたのがきっかけでした。
あまり乗り気ではなかったのですが、半ば強制的に始めさせられたように記憶しています。
当時、反抗期真っ只中な私。
父とは仲が悪く、棒高跳も棒高跳の練習も大嫌いでした。
そんな大嫌いだった棒高跳でしたが、試合に出るたびに自己ベストを更新していたように思います。
嫌いとは言いながらも、自己記録を更新するのは単純に嬉しかったような気がします。
(今考えると「棒高跳舐めんな」と言いたいです。笑)
その後、縁があって浜松南高校に進学しました。
高校では中学での練習不足もあってか、記録が伸び悩み、よく泣いていました。
「悔しい、もっと高く跳びたい」という気持ちが芽生えたのも高校生の頃だったと思います。
そんな私を見捨てず、「お前は絶対にインターハイに行ける。最後はお前が絶対勝つ。」と声をかけ続けてくれた顧問の先生には頭が上がりません。
先生の暖かく、時に厳しい指導をほぼ毎日受け続け、気づいたら嫌いだった棒高跳が大好きになっていました。
結果的に、インターハイに出場することはできましたが、記録なしであっけなく終わり。
自分は天才ではないんだ、と思い知らされた高3の夏でした。
その後は地元の大学に進学し、夢であった保育士になるための勉強をしながら競技を続けていました。
環境の変化もあり記録が伸びずまた泣き続けたり、鉄棒から落ちて気を失い救急車で病院まで運ばれたり、コロナの流行により大学に試合の出場を認めてもらえなかったり・・・
辛いこともたくさんありましたが、全て今の私に繋がっていると思います。
私を信じて指導し続けてくださったコーチにも感謝してもしきれません。
【八木田沙椰とボウタカ】
私がNPO法人ボウタカに加入したのは2023年の6月頃、姉に誘われたのがきっかけでした。
加入した当初、「棒高跳オタク」ってこんなにもいるんだ・・・と思いました。
こんなにもたくさんの棒高跳オタクが集まったら何でも実現できそう!
と加入時も思いましたし、今も思っています。
NPO法人ボウタカでは、ファンドレイズチームに入り寄付金を集めたり、キャンプの運営に携わったり、ボウタカの活動報告を書いたり、マップの登録者の方々にメールを送ったり・・色んなことをさせていただいています。
普通に生きていたら経験できなかったことがたくさんあり、とても新鮮で楽しいです。
私は、以前子どもに関わる仕事をしていました。
その経験もあり、まだ棒高跳を知らない子どもたちに「棒高跳の楽しさ・素晴らしさ・綺麗さ」を知ってほしい!と強く思っています。
しかし棒高跳はマイナーな競技で、一般の方からするとあまり馴染みのないスポーツだと思います。
そのため、棒高跳と出会える場所や機会を増やすのが私の夢です。
いつか子ども向けの出張ボウタカチャンネルをしたり、ストリート棒高跳などで大人だけでなく子どもも棒高跳に触れる事ができる機会を作ったりしてみたいなと思っています。
棒高跳に興味を持った人が、気軽に挑戦できるようになれば嬉しいです。
スポーツを通じた喜びや感動、自分への期待や自信などを感じてほしい!
あわよくば、それが棒高跳を通じたものだといいなと思います。
そのために、これからもNPO法人ボウタカでの活動を精一杯頑張ります!!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
これからもNPO法人ボウタカをよろしくお願いします。
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